神社仏閣の分類 [見仏]
住人の趣味は神社仏閣めぐりである。まだまだえらそうに言えるほど多くめぐっているわけではなく、地域も偏在している。
もちろんここで言う神社仏閣とは何らかの文化財や由緒を有する寺院などのことで、住人が法事でお世話になっているような一般的な寺院は議論の対象としていない。
ちなみに住人の寺社めぐりのバイブルは「全国寺社・仏像ガイド」2001年版である。
そんななかで、
前回も述べたが、かなりの偏見と錯誤をお許しいただければ、神社仏閣はいくつかに分類できると思っている。
神社仏閣はもちろんそれぞれ由緒があり歴史もあるのだが、後援者の盛衰、度重なる戦火などで、お寺も栄枯盛衰を繰り返していると思われる。現存しているのはその中でも、信仰や後援者のバックアップが少なからずあったから生き残っているわけである。「門前市を成す」という言葉があるが、門前に市をなしているのはその時点で、多くの参詣者がありお寺が栄え、その参詣者相手の商工業が集積しているわけである。古くから市をなし続けているものあれば、衰退したもの、近年になって興ったものなどある。
馬寄村の住人の神社仏閣の分類
1.テーマパーク的寺院
2.現時点で商業ベースに乗っている寺院
3.近年、商業ベースに乗ろうと試みたが失敗した寺院。
4.近年、商業ベースに一度は乗ったものの嫌気がさして降りた寺院
5.現在売り出し中の寺院
6.はなから商業ベースに乗るつもりのない寺院
7.その他
1.テーマパーク的寺院とは仏像などに興味がなくても誰でも知っている超有名寺院である。
金閣寺、興福寺、出雲大社、大宰府天満宮などを想像していただければ容易に理解できると思う。京都、奈良などは宗教都市であり、都市そのものがテーマパークのようなものである。
2.商業ベースに乗った寺院とは、寺院側も周囲も寺院をうまく利用して門前に古くからのおみやげ物屋がある寺院である。
商業ベースに乗った時期は明治以前の寺社もあるし、戦後である寺社もあるだろう。伊勢神宮参詣や長谷寺などは代表例と考える。近年の北部九州においては高塚愛宕地蔵尊などである 。 高塚地蔵は住人が小学生の頃は日田からも1時間近くかけて曲がりくねった山道を車で登った山の中腹にある小さな祠であったが、その頃からすでに門前にお土産物屋があり、こんにゃくやゆず胡椒、餅など地元の産品を売っていた。それが何時の頃からか観光バスツアーの織り込みチラシに常に載っている観光地になり、今では大分自動車道の天瀬高塚ICが地蔵尊の入り口に出来てしまった。地元と政治の力が結びつくとすごいことになるものである。
3.商業ベースに乗ろうと試みたが失敗した寺院は場所が他の観光地から孤立しているなど、その寺社だけの魅力ではなかなか集客できない寺社が考えられる。
門前におみやげ物屋らしきものがあるにはあるが、閉店していたり、カーテンが閉まったままになっていて、ひとけがなかったりする。
4.商業ベースに一度は乗ろうとしたものの嫌気がさして降りた寺院は有名な集客力のある観光地、寺院の周囲に見られるような気がする。
近くに集客力のある観光地があり、あまり努力しなくてもすぐそこまで人が来ているので、一時は商業ベースに乗ろうとして、雑誌などにも紹介されるなどしたものの、押しかける人の多さに対応できずにあるいは嫌気がさして門を閉ざしてしまった寺社である。大きな寺社への参詣のついでに、本にも載ってるし参拝させてくれるものと思ってこういう寺社に伺うと、過度に無愛想に冷遇されて当方としても「何で?」と困惑してしまう。お彼岸などそのお寺の行事があるときは通常は拝観をさせてくれる寺院でも断られることもあるので、注意が必要である。例を挙げるのは控えさせていただくが、見仏マニアには思い当たる仏閣があるのではないだろうか。
5.現在売り出し中の寺院の寺院とは町おこしや地域の観光事業の一環として、また寺社を広く皆さんに知ってもらい参拝者を増やしたいという意向から様々な努力を、地域住民、地方自治体、当該神社仏閣が現在行っている寺院である。
新たに旅行雑誌などに積極的に掲載し、寺院までの案内看板などは新しいものが至れり尽くせりでなされている。門前には完成された古くからのおみやげ物屋が並んでいるわけではないが、その地方の農家の方などが作った野菜や地域の産品の市が立ったりしている。
6.はなから商業ベースに乗るつもりのない寺院とは寺院の方針などで商業ベースに乗るつもりがないか、乗る必要のない寺院で、周囲の住民も積極的に売り出して商売しようと考えていない。
場所はあまり関係ないように思われる。例えば住人にとって薬師寺よりも新薬師寺のほうがよほどお寺らしく(薬師寺がいけないとか、嫌いといっているわけではない。ただ、玄奘三蔵院伽藍、大唐西域壁画殿などが、住人のもっている寺院感覚からするとちょっと違うだけである。)、国宝なども決して薬師寺に劣らないものであるが、その寺社は周囲の田園風景に溶け込んでいる。
尾道の浄土寺などは尾道という観光地にあるにもかかわらず、しかも多くの国宝や重文を有しているが、地形的な問題からか積極的に売り出してないようである。
商業ベースに乗ると参拝客が増え、その経済力や地域への影響力で、さらに寺院の整備や宝物の維持管理が容易になる。商業ベースに乗れない、あるいは乗らないと寺院の維持などにかかる費用が門徒や後援者の経済力に依存するので、経済的に潤沢な寺院はよいが、そうでなければお寺が荒れてしまうことになる。一番わかりやすい例が国宝や各自治体の指定の文化財になることである。
国宝などは指定されるためには収蔵庫の基準などクリアーしなければならないルールが厳しく決められているが、指定されれば修復などには国からの補助金が期待できる。
一方宗旨によってはバックに強力な勢力がサポートしている寺院は別に商業ベースに乗らなくてもお寺は維持できるのであろう。
しかしいったん商業ベースに乗ろうとすると、たちまち週末には住人のような変な輩が寺域をうろうろすることになるし、場合によっては観光バスが押し寄せてきたりして、周囲に駐車場の確保が必要になる。
出来るだけ多くに人に参拝してもらって寺社が栄えることを望まないところはないはずである。商業ベースに乗らずともただ単に信仰の対象としての神社仏閣として後世に引き継げるのであればそれが一番良いと思う。
建物を含め、宗教性は薄められ、鑑賞の対象とされて門徒以外の多くの人たちからも愛されながら経済の中に取り込まれてゆくのか。しかし行過ぎた商業化、観光地化は、門徒の方に迷惑がかかったり、固有の雰囲気が失われてしまったりと良いことばかりではない。
何事も按配が難しい。
以上しょうもない分類である。
ところで、どのお寺も祈願や参拝の案内、トイレの案内などの看板が境内にやたらに目に付く。しかもその看板が大きくて、品がなく、景観を自ら破壊しているように思われる。看板なので、「目立って何ぼ」なのだが、それにしてもひどすぎる。看板の立っている位置にしても、「ひょっとして風景写真を撮らせないようにわざと設置しているのでは」と考えたくなるほどどのお寺もある。寺社関係の方にはそろそろ景観を考慮に入れた案内をしていただくことを切に願うものである。
国宝 芸術新潮編集部編
新 全国寺社・仏像ガイド (美術ガイド) (単行本)
注)住人は全国寺社・仏像ガイド 2001年7月30日発行を参考にしている。
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