舌の思いで [エッセイ]
住人は食べ物の好き嫌いがほぼない。というよりも、口に入るものであれば、昆虫などのゲテモノのたぐいを除けば何でも食べる方である。
とくに、アルコールと糖分と動物性タンパク質そして粉物は好物である。
たまに天神などに行くと、
年甲斐もなくデパ地下のショーウィンドウにはり付いて、おしゃれなケーキを目で楽しんだり、
浄水通りあたりののショップに出向いたりする。
一時期、石村萬盛堂が郊外展開している「いしむら」で飲み放題のコーヒーを頂きながら、食べたいケーキをはしごするというのが我が家のマイブームであったことがある。
さて、
我が家は言うまでもなく、父方も母方も高貴な出ではないので、住人の小さなころからの甘味といえばいわゆる田舎のスウィーツであった。
例えば、ぼたもち、ぜんざい。
それぞれの言葉の定義はいろいろあるだろうが、
住人の中での定義は小豆の形をとどめたものが「ぼたもち、ぜんざい」であり、こしあんが「おはぎ、おしるこ」である。
我が家のそれらはいづれも、ぼたもち、ぜんざい派である。
甘さは控え目で、小豆の素材の味が生きているものを良しとしていた。
よく言えば、素朴な田舎風、悪く言えば、粗野で、お下品なものが、住人の口に合う。
資さんうどん(すけさんうどん)のおはぎが近いものであったが(資さんのものが粗野でお下品と言っているわけではありません)、現在のものはこじんまりと小さく上品になってしまった。
我が家の牡丹餅は、餅米に大量のあずきのあんこで覆っただけ(もちろん三温糖などは入っているが)のもので、
小豆の原型をとどめているが、その表面がなにがしか輝いていたように記憶しており、それはそれでこしあんにない力強さと美しさを持っていたように思う。
戦争を経験している母親の常々の口癖は「足りないようではいけない、少し余るようでなくては・・」
であり、毎回 とても家族が食べられる量ではないほど大量に作られたことには閉口したものである。
閉口したと言えば、大学時代、博多の親友が川端ぜんざい
に初めて連れて行ってくれた時の事である。
山笠で慣らした、ちゃきちゃきの博多っ子である親友は 住人がぜんざいを口に入れるのを嬉しそうに見ながら
「甘かろーが~」と自慢げである。
博多のぜんざいはたぶん甘さが勝負なのであろう。
住人は「ここまで甘くせんでもよかろーもん」と心で思いながらもしぶいお茶を頂いた。
いまはもう何か経営形態が変わったようで、懐かしい思い出の店はないようで残念である。
博多に行くと、時々買うのが、ほうらく饅頭
であるが、これもおいしいにはおいしいのだが、住人には甘すぎる。
住人が子どもの頃
小さな店でおばちゃんが焼いていた、回転焼き(回転饅頭?)なるものは、多少小豆の形が残っていて、それほど甘くなく、
住人の口に合っていた。(というより、そんな風に舌が躾けられたのだろうが・・・)
たぶんそれぞの人に、「小指の思いで」
ならぬ、「舌の思いで」があり、それぞれの流儀があるのであろう。
どちらが、いいとかわるいとかいう問題ではなく、個人の嗜好であり、それにはその地域の伝統、文化が色濃く影響しているものと思われる。
昔、旦過市場で何も考えずに買って帰った牡丹餅が、塩あんこの牡丹餅であり、世の中に塩あんなるものが存在することを知った時の、「なんで甘い牡丹餅に塩~?」
という驚きは今も鮮明に覚えている。塩味により甘さを引き立てるといった、高度なレベルの食物なのであろうが、現時点まで、住人はその味がわかる域には達していない。
今の子どもたちには、子どもたちで、住人とは違っていてよいので「舌の思いで」をたくさん作ってほしいものである。
あなたは「ぼたもち、ぜんざい」派、それとも、「おはぎ、おしるこ」派でしょうか。