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言葉 [エッセイ]

  住人は外国語は言うに及ばず、日本語すら自信が無い。学生の時分、国語は苦手教科であり、いまでも劣等感を持っている。(いきなり余談だが、卒業直後の医局時代にJICAのアフリカからの研修生の英語が聞き取れず、pardon(すみませんがもう一度お願いします)を連発し、白眼視された。  来日する台湾や韓国の歯科医は英語はペラだし、住人の英語力と同程度の日本語がしゃべれる臨床家が多い)

「目は口ほどにものを言う」といわれている。確かにそう思う。目はその人の心が映し出されていて、言葉よりもうそをつけないように思う。我が家の駄犬の目は本当に美しい。きっと心は美しいと確信する。でも犬である。

目が美しければそれでよいかというと、そうでもないようである。言葉もその人の内面の表出であると思う。
とっさの一言にその人間の本性が出ることがある。言葉を発するということもその人の常識、知性、感性、思考法、価値観、品格、コミュニケーション能力等々内面がほとばしり出ることであり、大変恐ろしいことであると思う。

住人の内面が至らないのは 不徳と今までの精進が足りないので、それを取り繕っても仕方ないのだが、内面が出るゆえに「言葉を発する」という行為は恐ろしい。

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 いまどきの若いもんは・・・というセリフは いつの時代も年配者のものであったと思う。
住人の爺さんの世代は、住人の父親の世代に向かって、
住人の父親の世代は、住人の世代に向かって、
そしこ今度は住人の世代が、住人の子供の世代に向かって・・・・

 言葉は 生活様式や人間の思考の変化に伴い、語彙や用法が徐々に変化しながらも、しかしながら変化しない何がしかが、沈殿し、維持されてきたのではないかと推測する。

 住人は 杜甫などの漢詩や、浪曲、詩吟、などの類は脳みそに入っておらず、皆目無知である。これは悲しむべき知識の断絶である。
それでも、「ご新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさお富、ひさしぶりだぁなぁ~」
とか、
「赤木の山も今宵限り~。生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨て、かわいい子分のてめぇたちとも~、別れ別れになるかどでだぁ~」
とか、
意味もわからずであるが、一応脳みそに入っている。(余談であるが住人は子供の頃、赤い靴はいた女の子いいじいさん(よい人)につれられていって、幸せになったと思っていた。)

 先日来、柳田國男の遠野物語を読んだ。
その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪、山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神、そして行事など多岐に渡る。
 そこで感じたのは当時の東北人の感性はもちろんであるが、その感性の豊かさに比例した、語彙の豊かさである。


昔のことがよくて、あたらしいことが悪いということではない。誤解のないように申し上げるが、本文は「昔はよかった・・」というような回顧主義や過去を賞賛する意味あいで申し上げているのではない。
きっと いまどきの子供たちは、そのような古い言葉の代わりとして、住人の知らない名詞や動詞、概念がたくさん入っていることだろう。

 しかし日本人の言語として変化が許されるものと、変わってはいけないものというものがあるとしたら、
現代の変化は、過去の歴史の中の変化と同程度の変化で、許容範囲の変化なのだろうか?
それとも、日本人でなくなりつつある変化なのだろうか?
日本人としての語彙の量は維持されているのだろうか?

社会が分業化され、自然のなかで生活する上で必要な言葉、たとえば農業に使う言葉、モノの色、雲や雨など気象、盆など季節の行事に関する名詞など、現代社会では不要と言われれば、それまでだが、コトバの総量は減っていないだろうか。


専門家ではないので断言できないが、コトバ数が少なくなってきているような気がする。

あまりしゃべらなくても、困らない時代なのだろうか。

自分にとってプラスのこともマイナスのことも「マジヤベー」と言い、その意図するところは空気で判断しなければならず、自分の思いを相手に正確に伝えるのは、けっこう大変だろうと思うのだが。

 住人は 震災の風景をバックに、うさぎおいしかの山~♪(うさぎが美味しいわけではないことは住人も知っていた)の故郷 (唱歌)の歌詞とメロディーを聞くと、何となく涙腺が緩むのだが、今時の若いもんも「マジやばくない?」と価値観を共有できているのだろうか?


美しい日本語、文化、風習は失われ、かといって国際派の人間が育っているわけでもなく、(仲間)内にこもってきているのなら残念なような気がする。

-e1879.jpg長野市若穂保科 清水寺(せいすいじ)本堂


タグ:言葉
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