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街の思い出1(下関) [エッセイ]

 街からジングルベルの音楽も消えて、いよいよ新年を迎える準備をする時期になりました。
昔の思い出に浸りだすともう年ですが、この時期の街の雰囲気を見るとなぜか昔の記憶がよみがえります。

  昭和40年頃の話です。
住人にとって子供の頃の「買い物」というと小倉なのですが、その話は次回に譲って、今回は下関の思い出について書いてみたいと思います。。
 下関市という行政区域は実際の地図で見るとかなり広いですが、住人の記憶の下関といえば、 唐戸と下関駅周囲の限られたエリアの限られた記憶です。

 当時の住人の頭の中で下関の地図には下関駅と唐戸と長府の水族館しか書き込まれおらず、関門トンネルか、渡船で渡る、関門海峡の対岸=下関でした。
錯誤があるかもしれないので、ご指摘いただければ幸いです。


2496850龍蔵寺

  それぞれの町にはそれぞれの歴史が堆積した雰囲気というようなものがあります。
しかし、当時の下関は壇ノ浦の戦いや維新の雰囲気からは遠い、港の町であり、「マルハ」の企業城下町で、鯨などの水産加工と水産業関連の街でした。

 当時、まだ関門橋は開通しておらず、下関に買出しといえば門司港から唐戸行きの渡船に乗るか国鉄を利用するかでした。
国鉄を利用した時は 陶器製のふぐの容器に入った弁当を買ってもらうのが楽しみであった。当時はまだお茶も陶器製だったように記憶している。(住人の楽しみはこの頃からもっぱら食べることである。)

下関駅付近か唐戸界隈か記憶はさだかではありませんが、デパート(大丸?)がありました。母親の買い物に付き合わされている住人にとって、買い物の記憶はまったくと言っていいほどありません。母親が物を選んでいる間、周囲の人たちを見て気を紛らわしたり、デパートの記憶といえば、大食堂か屋上の遊園地です。

 余談ですが、 当時缶ジュースなどの自動販売機はなく、デパートの屋上などにある自動販売機は機械の上に透明なガラスの容器がのっており、その中を噴水のようにオレンジジュースが、吹き上がりながら循環しているようなものでした。
 現在のコーヒーなどの自動販売機は紙コップも機械の中に格納されており、お金を払うと出てくるシステムですが、当時は紙コップのホルダーが機械の横に備え付けてありました。
紙コップを取れば、いくらでも取れるのが面白い住人など、飲みもしないのに紙コップだけ、ドンドン引っ張り出して、ひんしゅくを買った記憶があります。

唐戸市場は今ほど一般向けではなかったが、一般人も出入り自由だったように記憶しています。
渡船乗り場の周囲などはリヤカーなどで干物などの海産物を売るオバちゃん達が大勢おり、とにかく人がうじゃうじゃいました。(当時、我が家のような山奥まで、山口方面から行商のオバちゃんが、その日採れた魚や乾物を大きな缶に入れて背負って行商に来ていた)

 下関からの帰りには夕飯のおかずなどを母親が買っていたのだが、中でも住人の記憶に残るのは「明太子のようなもの」である。
当時は新幹線も博多まで延びておらず、博多の辛子明太子もメジャーではなかった。
下関で買っていた「明太子のようなもの」の名前はもう記憶にないのだが、子供心にヒィー、ヒィー言いながら食べた記憶があるので、現在の明太子よりもかなり辛かったはずである。
当時下関で購入していた明太子は 多分韓国系のたれにつけた物か、唐辛子の量が現在の物よりかなり多かった(たぶん唐辛子がまぶされていた)のであろう。ここでも、下関という土地柄がうかがえる。この明太子の「辛いけどおいしい」記憶はいまだに忘れることができない。
だから、はじめて博多の明太子を食したときは、全く物足りなかった。(ちなみに現在は個人的にかば田の昆布漬け明太子か稚加榮の辛子明太子がお気に入りであるが、上品な味の明太子もよいが、当時の復刻版をぜひ売り出してほしい。)

 それから我が家はしばらく下関から足が遠のきます。おそらく、小倉に大型スーパー(ダイエーなど)が進出してきたからであろう。
また、遠洋漁業や鯨漁の衰退が下関の町に影を落としたからかもしれない。

 再び下関に足が向かうのはシーモール下関というダイエーと大丸をコアにした複合商業施設が下関駅前に出来てからである。
 その後、黒崎にそごうをコアにして商業施設が出来たのが昭和54年というので、専門店が入った複合商業施設がまだ当時珍しかった、その規模の大きさに度肝を抜かれたのを覚えている。

正月用のマグロやぶりなどは 同ダイエーの地下の食料品売り場で買っていたように記憶している。
シーモールは今でも時々子供をつれて関門海峡を渡って食事や買い物にでかける。

 下関といえばふく(河豚)であるが、それよりも焼肉がお勧めである。(ふくをたらふく食べられないひがみも入っているが・・・)

 門司と下関は数百メートルの関門海峡を挟んだ街であり、関門海峡を挟んで、対称的であり、よく似ているのだが、人が話すイントネーションもかなり違うし、気質も異なるようである。これは地勢学的な要因なのか、古代、渡来人の違いなのか、長州藩と小笠原藩の気質の違いなのか、攘夷派と佐幕派 の違いなのか、それとも北九州の場合、その後背地である筑豊の歴史と風土がにじみ出ていているからかも知れない。
住人の思い込みだろうか、とにかく関門海峡を挟んで人とそのかもしだす街の雰囲気は違うように思う。

今となっては知る人も少ないが(2010年の大河ドラマ、竜馬伝で取り上げられるかどうか知らないが)、馬寄村は長州軍と小倉軍の戦い(小倉戦争)の場になっているのである。
間違いがあれば、ご指摘いただきたい。(山口はいまだ保守王国でもあることでわかるように、すこし市街を離れれば、古くよき日本が残っており、その雰囲気は住人は大好きです。怨恨の類の話ではありません。あしからず)

それにしても住人の子供の頃の記憶は必ずと言っていいほど食べ物とリンクしている。
くいいじだけは幼い頃からピカイチである。

参考HP

門司の歴史11.江戸時代

土井ヶ浜人類学ミュージアム


タグ:下関 思い出
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