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安全とコスト [世の中のからくり]

 先日の山口のホテルでの、一酸化炭素中毒での事件は大変悲しい不幸な事件である。
尊いお一人の命が奪われ、修学旅行の生徒たちにとっては楽しい思い出になるはずだったのに、最悪の思い出になってしまったことであろう。
まずは犠牲者の方のご冥福をお祈りするとともに、児童の皆さんの心のダメージのより早い回復を願ってやまない。

 この様な結果は誰も望んでいなかったはずである。そして、当然設計上の問題、ホテルの安全管理が問われ、今後このような事故が起こらないよう更なる規制がなされるであろう。
  しかしながら、この事件に現在の日本の現状が見え隠れするような気がする。この事件だけでなく、構造計算書偽造の事件の時も考察したが、日本の現在の社会状況にも合致すると思われる。
ということは、同様のことが繰り返される可能性があると思う。
あくまでも住人の想像であり、事実誤認があるかもしれないが、なぜこのような悲劇が起きたか考えてみた。

2386080三徳山三仏寺

 まず、修学旅行を計画する学校側は保護者から集めた貴重な積立金を有効に使うべく、旅行会社に企画を依頼するであろう。「それぞれの家庭の経済状況は様々であり、限られた予算の中で楽しい思い出を作ってあげたい」そう考えたであろう。そのときに、絶対条件が安全であり、そういうことは言わずもがなである。先生方はよくも悪くもなく、旅行会社に「おまかせ」であったであろう。
  一方、旅行会社は旅行を企画し、提案するわけであるが、その段階でも「この旅行は格安ですが、危険です」といった提案がなされるはずはない。安全が絶対条件のはずである。しかし、事故が起きたときに旅行会社そのものの責任が問われることはない様に思われる。

 学校側はよほどの事情がない限り複数の旅行会社から旅行の提案を受けるはずである。
その場合の検討事項は値段と内容の充実であろう。バスやホテルの安全性は当然のこととして、議論に上がってこないであろう。
競合する旅行会社同士は1円でも安く上げることで競い、腐心している。そして、おそらく最もお買い得なプランが選ばれるはずである。

 リッツカールトンのような最高の安心とサービスを提供するホテルに宿泊できればよいが、予算の都合で、候補に挙がるはずもなく、失礼な言い方であるが、それなりのホテルになるはずである。
  余談になるが、「宿泊客に感動を、サービスを、ホスピタリティーを、おもてなしの心を」とのたまう 大手の有名ホテルはぜひボランティア精神とホスピタリティを発揮して、赤字の破格の値段で修学旅行生を受け入れていただきたいものである。
 さらに、修学旅行に公共の宿が選ばれないのはなぜだろう。公共の宿が選ばれないくらい高いのだろうか?それとも今回のホテルの方が非常に安いのであろうか?
本来公共の宿は民間の宿より安いから存在理由があると思うのだが、その公共の宿が高いのであろうか。「かんぽの宿」の料金が安いのに赤字なのであれば、修学旅行は「かんぽの宿」に泊まれば、双方が利することになると思うのだが、
それとも、現在の景気の状況では、安全管理に手が回らないくらい安い値段でないとお客さんの心はつかめないのであろうか。

 それはさておき、ホテルやバス会社などは 旅行会社の下請けみたいなものなので、旅行会社から提案された条件を呑むか断るかである。
ここで問題なのは旅行会社やエンドユーザーが、これらの会社の安全のために必要な費用を手当てするくらいの適正価格であったかどうかである。安全に対する手当てができるくらい適正な価格であったにもかかわらず、企業が安全管理を怠ったのであれば問題である。しかし、どこも安全に対する手当てを企業に対してせずに、中小零細の下請け企業にそのコストを押し付けたのであれば、別の問題である。

住人は、現在の日本はどちらかといえば後者で、弱いものに犠牲を押し付けている体質に原因があるように思える。エレベータでの事故もそうだったように記憶するが、現在の日本は、「リスク」や「コスト」や「「違法性」は中小零細の別会社に押し付けて、自分の身は潔白なような振る舞いをするように思う。
 零細、弱小企業にしてみれば、 極論であるが、「その値段では安全管理に費用をかけることができません」と言って、取引を断り、会社をつぶすか、泣く泣く旅行会社の提示した条件を飲んで社員とその家族らの生活を何とか維持するかのどちらかである。

旅行会社はバス会社などが安全管理も十分できないであろう安い料金を提示してきた時は逆に断るくらいの良心、旅行客が不当な値引きを要求してきた時は断るくらいの姿勢がないと安全は維持できないのではないだろうか。そこを調整して安全を売るのが旅行会社などの大企業の役目であるべきである。

この、安全に対するコストを国やユーザーがきちっと面倒みるのであればこのような問題は減ると思われるが、市場原理の土俵の上ではコスト削減には限度があるので、このような問題はなくならないだろう。

繰り返しになるが、企業の責任者が安全管理に費用をかけずに、個人の利益に回していたのであれば、会社の責任は重いであろう。
しかしながら、個人的な推測の域を出ないし、事件を起こした会社を擁護するわけでもないが、それだけ経営に余裕があったのだろうか。住人は今年の3月に当ホテルの前を通っただけだが、ひっそりと落ち着いたたたずまいだった。

 こういう事件が起こると、次のステージは「行政による、事件再発の防止のための縛り」である。
行政は自分たちの管理責任を問われたくないので、いろいろな規制を作る。規制を作っても自分たちには不利にならず、逆に自分たちの雇用を創出するので、官僚や行政にとってデメリットではない。

今回も火災報知機にくわえ、一酸化炭素検知器のとりつけが義務づけられるであろう。
そうなると、行政と結びついた関連法人や、火災報知機などを販売する一部の会社は利益を得るであろう。しかしながら、おおよその国民はその安全のためのコストを要求される。

 安全のためのコストというのは実はあまり生産性のないコストである。安全を追求すると、運動会も修学旅行もあまり楽しくないばかりでなく、費用のかかるものになるであろう。
さらに、どのレベルまで安全性を追求するべきかも考慮されなければならない。震度5の地震に耐えるようにするのか、震度7の地震に耐えるのかでは当然震度7に耐えうる耐震強度を要求されれば、より費用がかかる。
学校の建物を地震に強くすることは大変よいことである。しかし、そのためのコストは国民が負担しなければならない。

個別事案のコストだけでなく、安全を追求すると日本の国自体が高コスト社会になって、国際競争力はどんどん落ちてゆく。
なぜなら、日本ほど安全にコストをかけない国がほとんどであるからである。

平和、安全立国日本である。住人は安全にコストをかけるべきではないと主張しているのではない。
安全を求めるということはそのためにかかるコストを国民が覚悟しないといけないし、「日本が高コスト社会になればなるほど、日本の商品は割高になり、売れなくなるし、買えなくなる」ということを国民が受け止めておかなければならないのではなかろうか。
ここからも世の中のからくりが見えてくる 。医療も同じである。

>>>世の中のからくりについて考える2~「発掘!あるある大事典」も不二家もみんな同じ?」~
http://onoki.blog.so-net.ne.jp/2007-05-22-1

>>>山岸 俊男 (著) 日本の「安心」はなぜ、消えたのか―社会心理学から見た現代日本の問題点 (単行本)  http://onoki.blog.so-net.ne.jp/2009-03-12

三仏寺


タグ:コスト 安全
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