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信じるものは救われる2 [エッセイ]

2496854  血液型による性格分析は科学の世界では完全に否定されている。
しかしながら、テレビや雑誌でも、それほど目くじら立てられずに日本人は受け入れている。
ましていわんや、心霊現象番組は花盛りである。「非科学的な番組を放送してけしからん」とはならない。
 血液型による性格分析もある意味宗教である。(住人はコミュニケーションの補助的ツールとして完全否定はしないが・・・)
それほど堅苦しく考えずに(血液型は非科学的なことを知っていて)血液型の話をしている日本人は「非科学的なこと」と柔軟にうまく折り合いをつけているのかもしれない。

 お勧めまではしないが、正月に1冊の本(生物学者と仏教学者の七つの対論)を手にとった。以下 興味のある方は手にとって見られてはいかがでしょうか。
 お屠蘇が抜けずに脈絡が整っていないことはご容赦下さい。

 龍蔵寺

 ギリシア哲学とキリスト教の上に発展してきた西洋の科学が進歩すればするほど、また、脳科学の進歩に伴い、人間の精神を探求し裸にしてゆくほどに神や霊や来世が否定される。ところが「現在の人間にとってストレスフルな社会は宗教的(非科学的)思考が心の安寧の拠り所として益々輝きをまし、人間が穏やかに生きてゆく足掛かりになるのではないか」と住人は考える。

 本書によると、(多神教ではあるが)大乗仏教も超越者、絶対者の(存在)力に救いを求めるという意味で、イスラム教やキリスト教徒と同じそうである。
釈迦(小乗)は「そのような外力に頼らず苦からの回避(解脱)、自ら解決策を求め続けないといけない」と考えることで、他の宗教とは一線を画すそうである。

 科学の進歩は宗教から神秘的な領域をどんどん狭めて行く一方で、貧困などで救われたいと思う人が増えれば、宗教(超越者、絶対者)に依存したいと思う人間は増えるのではないだろうか。
過去でも現在でも、救済されたいという思いを解決するには、非科学的な宗教が手っ取り早い。

人間は神が創ったという考えは科学の進歩により人々の心の隅に追いやられるであろう。
しかし、科学の進歩が心の安らぎに貢献するかどうかは別問題であろう。
人間はそれが非論理的であっても何かと簡単に折り合いをつけることを望むように思う。

宗教とは心に安らぎを求めるものであるとしたら、それが、非科学的であろうと科学的であろうと問題はない。おおむね宗教は非科学的であるが、科学的なものに安らぎがあるのであれば、その人にとって科学は宗教でもありうる。

一方で、科学は論理的なものであることが絶対のはずだが、宗教的な、科学(科学的なもの)が存在する。その科学的なものを科学であると妄信するのは危険であり、それはもはや科学ではなく、宗教であると考えなければならない。

科学で解明できないことがあるということを謙虚に思うことも科学者として健全であり、何か大きな力によって生かされていると思いたいと住人など考える。

「人を信じる」のは「人を疑う」よりも力(エネルギー)が要る。
「この人(物)を信じよう」と決断するのは自分自身であり、疑わずに信じ続けること(住人にとってだけかもしれないが)そして、その結果は自己責任だからである。

余談ではあるが、科学者も一般人から布施を受けて、自分の知りたい真理を究明しているので、宗教家となんら変わらないという筆者らの発想は面白かった。

最後に皆さんは歯科医に科学者を望むのであろうか、宗教家を望むのであろうか。

>>>信じるものは救われる

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書) (単行本)
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)

斎藤 成也
1957年生まれ。東京大学理学部生物学科卒業。米国テキサス大学ヒューストン校大学院修了(Ph.D.)。現在、国立遺伝学研究所教授、総合研究大学院大学遺伝学専攻教授(兼任)、東京大学大学院生物科学専攻教授(兼任)
佐々木 閑
1956年生まれ。京都大学工学部工業化学科および京都大学文学部哲学科仏教学専攻卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学バークレー校仏教学科留学。現在、花園大学教授。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


タグ:宗教
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