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日本人が失いつつあるもの [エッセイ]

 コンビニの前に座り込んでファーストフードを食べる若者、通勤電車の中で化粧する人に向かって「そんなことして恥ずかしくないの?」と言ったらどんな反応が返ってくるだろう。
「恥」という言葉は何年か後には死語になるかもしれない。
住人は戦後生まれなので、以下のコメントに関しても、井の中の蛙が世界についてコメントしているようなものでり、天に唾しているようなものである。しかも十分消化できておらす、かなり乱暴な議論展開であるが、戯言と思っていただければ幸いである。

住人が子供の頃のことである。盆に蝉取りなどしていると、祖母から「そのセミはおじいちゃんの生まれ変わりかもしれないのに、そんなことしてはいけない」とか、「近くのXXX山には死んだ人が通る道がある」(神奈備信仰;かむなびしんこう?)とか聞かされたりしていた。これらの婆ちゃんの発言は特定の宗教だけに根ざすものではなく古くからその土地に伝承されていたり、それらが仏教の影響を受けたものと考えられる。

DSC_8173 (Small).JPG三徳山三仏寺(さんぶつじ)

 古来、狩猟、農耕民族だった日本人は自然信仰があり、山ノ神、田の神、火の神、水の神といたるところに神が存在する多神教だった。
大和朝廷は日本を制圧していく過程においても、それぞれの土地の神を認めながら(作りながら)統一していった。だから、仏教が入ってきたときもさほど抵抗もなく受け入れられたのであろう。聖武天皇やその皇后である光明皇后は自分たちの崇拝する神々に加え、国民の安寧を願って深く仏教に帰依したのである。
一方、キリスト教は一神教であり、その神と契約しているから悪いことはしてはいけないということが倫理観の根底に流れている。他の神をあわせて拝むなんて契約違反もいいとこで、ありえない。だから、キリスト教がギリシャ、ローマ帝国の国教になれば、今までの神は捨てられていたのである。彼らは以前の神々を捨てて、完全にキリスト教に改宗するのである。
そして、キリストとの契約を守るために信者の人は正しく生きる努力をするのである。(遊牧民だけあってドライな契約社会?)そこにキリスト教的倫理観、道徳観がある。
 話を日本に戻すが、奈良の興福寺は藤原氏の氏寺であり、すぐ近くにある春日大社は氏神という関係にある。このころからすでにお寺と神社にお参りするということが見て取れるのである。大抵の村にはお寺と神社があり、葬式には坊さん、家の敷地払いには神官が来るのではないだろうか。
 他にも、福岡市東区の筥崎宮は「聖一国師円爾(弁円)が宋から帰朝の際に海難に遭うも筥崎八幡神の加護により事なきを得たことに因み、神恩感謝のため承天寺の僧が神前で読経する。」という「聖一国師報賽式」が1月11日に毎年行われている。これなど仏教に帰依したはずの僧侶が 筥崎八幡神に助けられ感謝するというものである。僧侶はお釈迦様や大日如来に助けられ感謝するのであれば分るが、ここ日本では僧侶が神に感謝するのも「あり」である。西洋人が聞いたらびっくりするに違いない。
ここに日本人は天皇をはじめ、みな原理主義的な一神教でなく、しかも多くの神々にやわらかく縛られながら、自分たちの道徳規範をつくりあげきた事が見て取れる。

日本人は 自然信仰、山岳信仰だけでなく、至る所に人知を超えた何かの存在を感じており、正しい行いをしないとその結果は自分に降りかかって来ることをなんとなく感じてきたのではないだろうか。「XXの神様が怒ったせいで今年は不作になった。」といった具合である。その代表が「お天道様はしっかりと見ているんだよ」であろう。
さらに農耕民族であるがゆえに村などの単位でうまくやってゆくためには「周囲の目」も「たが」をはめていたはずであるし、聖徳太子の時代から「和をもって尊しをなす」ことが日本人を束ねていく上での黄金律であったであろう。それに加えて儒教思想も日本の道徳規範として生きていたように思われる。天皇や貴族、豪族にしても、西洋の国王や貴族と比べるまでもなく、支配階級もおよそ質素で常識的であったように思える。

 小泉八雲など明治時代に来日した外国人は異口同音に日本人の道徳性を高く評価しているようである。山本七平言うところの「日本教」なるものが、江戸時代までには確立され維持されていたのである。
ところがその「日本教」は大きく2度にわたって危うくされる。
1度目は明治維新である。
幕末にほぼ平和裏に政権交代が行われたのはよかったのであるが、下級武士たちの考えた西洋化、天皇制、廃仏毀釈などで、古くても今まで構築されて、機能してきた「日本教」的なものがばらばらにされてしまったのである。
また、都市におけるルールの確立がなされないまま急速に都市化をしはじめる。しかし、江戸時代、明治時代生まれの方にはまだ、その前の時代の良い影響が残っていたように思われる。
2度目はもちろん第2次世界大戦後である。
戦中、戦後を生きてこられた、焼け跡闇市派、外地引揚派、と称されるような方々は、それまで信じてきた正義、道徳性も根底から覆されるような経験をしたと推測する。
しかも占領政策を担ったGHQは天皇制へのアレルギーからか、(自分たちはキリスト教などの、宗教、道徳観を捨ててないのに)日本の戦後教育から宗教性、道徳性を排除しようと試みるのである。これがまた、当時のいわゆる左側の人たちのベクトルと一致して、強化される。
多分、GHQの占領政策は彼らが考えていた以上に成功したのではないだろうか。
この2度目の事件で、日本人が培ってきた道徳性や宗教性は寸断されたと住人は考える。

 地域振興につながる超有名祭りは別として、村の秋祭りなどは、地方自治体や学校などが参加することは特定の宗教との関係になり現在では困難であろう。
さらに、東京オリンピックが終わった1965年頃から、自動車の登録台数が急増し、脂肪の摂取量の急増など生活スタイルが欧米化した。西洋人の倫理規範や精神性、宗教性はおいといて、生活様式のみを輸入して欧米化したのである。
もはやそれ以降に生まれた人は精神的、肉体的に日本人ではないのかもしれない。

 教育の現場においても、1965年以降に生まれた先生もそろそろベテランとして扱われる年齢であろう。その先生がたの道徳の授業をぜひうかがいたい。(非難しているのではありません。)
そして質問してみたい。「道徳教育のベースを何を拠り所にされているのか。コンビニの前で座り込んでたむろするのは是か非か、学生服着てタバコすっている少女は是か非か、そしてその対策は?」(余談であるが以前聞いた実話で、高校生の少女が治療が終わった後受付で「今日はタバコ吸っていいですか?」とたずねられ、返事に窮したそうである。)

 オバマ大統領候補が大統領選の勝利宣言のスピーチの最後に「皆さんに神のご加護がありますように」といっている。日本の首相選で麻生さんが「皆さんに神のご加護がありますように」と言っていたらマスコミはどう反応していただろうか。
いまやわが国は アメリカ合衆国以上に、いやひょっとしてロシア、中国以上に国民の中から宗教的倫理観というものがすっぽり抜け落ちてしまったかもしれない。
その結果として、反動的にオウムのような教団にだまされたり、急峻なナショナリズムに走らなければよいがと住人は思う。このまま無宗教、無神論で自分を制御できる精神力と道徳律を日本人が作ることが出来るかどうか心配である。
日本人が失ってしまったものが原因で人生、苦しんだり遠回りしないようそして平和に生きるために、昔を顧みながら新たな道徳律を確立する必要があるように思います。しかしその解決策は住人のような脳みそではとても浮かばない。

参考文献
日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン 角川文庫ソフィア>>>http://onoki.blog.so-net.ne.jp/2007-10-20

神と仏 山折哲雄 講談社現代新書
対論・筑紫哲也 この国の姿 集英社


 

三仏寺


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