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「思い」は かなう? [エッセイ]

 高橋尚子さんが「プロ高橋としての走りができない」として引退表明をされて、話題になっている。
監督とどのような経緯があり、今までどのようにトレーニングしてきたか知る由もないので、彼女のことに関してコメントする資格はないのだが、住人は「彼女は今でも十分賞賛に値するし、十分がんばった」と思う。

閑話休題
住人は以前から感じていたのだが、「市場原理主義」の社会は結果がすべてであり、結果が出せなければ「0」または「マイナス」のような評価をされる風潮も伴っているように思う。
出来の悪い住人は少しでも人格を向上させるべくいわゆる「自己啓発書」と分類されるものをよく手にとる。
ナポレオン・ヒル中村天風らの著作から怪しい成功談義まで書店にはひとつのコーナーがあるくらい多くの書籍がある。

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東大寺南大門

 これらの人々の主張は全くその通りであり、否定するつもりはさらさらない。成功している人の論調なので間違いないはずである。
詳しくはこれらの本を参照していただきたいのだが、「人間は思い(希望)、努力し続ける意思の力がなければ何事も成就できない。諦めてしまうとその時点で成功の確率は0になる。だから、諦めないでがんばったものだけが成功する。だからがんばり続けなければならない。」といった類の論調がある。そして彼らの努力、成功への執念は生半可ではない。
くどいようだが全く賛成である。

しかし、住人が思うにこれらの論調を歪曲して捉えて、これが企業の論理に利用されると、短絡的に「結果が出せないのはあなたの努力が足りないからであり、ダメ人間。」になっていることがあるように思う。そしてこの手の論理は住人の狭小な知識の中では近年、「競争原理」という言葉とともにはびこっているような気がする。
 一方、結果を出さなければ評価されないので、なんとしてでも結果を出そうという意識や安易に結果さえ出せばよいという発想が、ドーピング、偽装、詐欺などに走らせているように思う。(もちろんこれらの行為は非難されることはあっても、どのような論調でも擁護できるものではない)

 ここで、ちょっと冷静に考えてみると、オリンピックで金メダルを取るということは文字通り世界一になることであり、みんながこれを目指してがんばっているのである。
その中で1位を勝ち取るにはもちろん強靭な肉体、精神力、運が世界中で最も強いヒトのはずである。「金メダルをとる」という「思い」をかなえるのは、尋常でない精神力が必要なはずである。それではそれ以外のランナーは思い(精神力)が足りなかったのだろうか。
一般的に肉体的な優劣に関しては「仕方がない」と諦めてもらえるようだが、精神(思い)だけはなかなか許してもらえず、「努力が足りない」となる傾向が強いように思える。思い(精神)も肉体同様、強い人もいれば、弱い人もいるはずなのに、「思い」が弱いと責められるような風潮がある。
結果的に成績が思わしくなかったスポーツマンはやや謙遜気味?に「自分の努力が足りませんでした。」と言わなければ世間が許さないようなところがあるような気がする。

 しかし、成功する人がいれば、うまくいかない人もいるのが世の中ではないだろうか。むしろうまくいかない人が多数派であろう。
オリンピックの金メダルを引き合いに出して、卑近な自分たちの努力不足を同一視するのもいかがなものかと思うのだが、あえて、一般論まで引き下げさしていただいて、「努力し続けなければならないのは解るのだが、どこかで引き際を考えて、線を引かないといけない時がくる」と思うのである。

「イケイケどんどん」で、がんがん努力する時期がもちろん必要である。そして、「人生生涯努力」なのだが、すこしアクセルを弱めて、諦念する時期もあってよいのではないだろうか。(それが何時かは個人によっても異なるし、正解は解らないと思うのだが)
高橋尚子さんの第二の人生が彼女にとって幸福で安らかであることを願うばかりである。

東大寺南大門


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