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日本人について考える [エッセイ]

 住人は人間、特に日本人が好きである。家族の買い物に付き合わされて、出かけた時など、行きかう人を観察して想像を膨らませていると時間を忘れる。

 「日本は法治国家である。」ということに異論をはさむ日本人は少ないのであろう。 1月8日の衆院予算委員会において、定額給付金問題について菅直人代表代行の「総理は定額給付金をもらうのかもらわないのか」という質問に対し、麻生総理は「予算が成立する前からもらう前提で話すのはいかがなものか」と言って物議をかもしている。
 金持ちがもらうもらわないの議論の前に、この発言は法治国家として非常におかしなことなのだが、実は日本の政治の実態と日本人の発想を如実に表していると住人は思う。
「やっぱり日本の行政はそうだったのか」と納得した。

 というのも、行政の長である総理は「法に基づいて執行される行政ですから、当然その法に従います。」と言うのが筋であろう。 その後の使い道に関しては寄付するなり、数百万足して買い物をして、消費拡大に貢献するなり、自由にすればよいのである。

DSC_7247 (Small).JPG室生龍穴神社
奈良県宇陀郡室生村室生1297

http://www.max.hi-ho.ne.jp/stan/gazo/gnr_ryu1.htm

 筋と言えばいきなり最初から余談であるが、
「川筋者気質」というものがある。麻生総理の発言をして「川筋者気質だから・・・」みたいな批判的な発言を聞くことある。
東京や京都のヒトからしてみれば洗練されていない乱暴な野蛮人のように写ることであろう。しかしこの批判的表現は 実は川筋者に失礼である。
 川筋者気質とは五木寛之の「青春の門」で描写されたように、筑豊炭田で有名な炭鉱町で、ここを流れる遠賀川沿いに住む人を「川筋者(かわすじもの)」といい、その侠客めいた気性をいうのである。住人の知る川筋者は確かに口がお下品で、話していると「喧嘩を吹きかけられているのでは」と感じることもあるし、善行をする自分を照れてあえて乱暴な発言をする人たちのように思う。その本質は義理堅く、情にもろく、根っからの「お人よし」で温かいと思う。麻生総理が真の「川筋者」かどうかは今後を注目したい。

 だいぶ横道にそれたが、法治国家に話をもどしたい。
現在の道路を法廷速度を守って運転していると多分渋滞になって、しまいには後ろからクラクションが鳴り出すであろう。
日本国憲法は,基本的人権の尊重を基本理念とし(第11条),生命権,自由権,幸福権(第13条),健康で文化的な生活(第25条)を維持する権利などを保障している。これらの権利を充足させるために諸制度は整えられることになる。そして,医療はそのうちの有力な一手段といえよう。
この憲法が守られていれば、派遣ギリや現在の医療崩壊はないはずである。
だが、実際には守られていない。
お役人は「日本は法治国家であり、法令は遵守され秩序が保たれている。」と言うだろうが、現実は皆さんのよく知るところであろう。
法令をきちっと守れば公立病院のように経営も成り立たなくなるのが現実ではなかろうか。

 それでは日本ではなぜ法律はあるのでしょう。住人のいつもの偏見でご容赦いただきたいのだが、
ひとつは
風俗営業にしても未成年の飲酒、喫煙などをあげるまでもなく、日本の行政は「お目こぼし」の世界である。
なんかことがあればすぐに「しょっ引く」ことが出来るよう、我々はお目こぼしの中で泳がされているのである。
しかし、この恐ろしいところは、ある日なにがしかの事件が明るみに出たとたんに厳密な法の執行が行われ、泳がされていた者は、急にはしごをはずされ、「お縄」になるのである。
「昨日までみんなやってたし、見逃してくれたやん!」といってもお役人(警察も含め、その他監督官庁といわれるもの)もマスコミもそっけない。
うまく切り抜けた者は「ホッ」と胸をなでおろしているはずである。
もうひとつは
公務員(警察、裁判官、官僚、etc)、の無謬(理論、判断などに、誤りがないこと、広辞苑第5版)性を成文化するためである。つまり公務員を守り、仕事を容易にするためである。
官僚は無謬性と匿名性で守られているのである。

 一方、日本人には判官贔屓(ほうがんびいき) という考えがある。
「派遣ギリ」をされたヒトへのコメントをする際に大臣などはよほど言葉を選ばないと、ちょっとした言い回しで、総攻撃を受ける。つまり日本人において「何が何でも弱者は絶対に悪くない」という「弱者の無謬性」も存在するようである(最近はややほころびが目立ってきたが、マスコミは絶対正しいというマスコミの無謬性も存在する)。逆に強者がしくじると容赦はない。
アメリカ(合衆国)人のように、アメリカンドリームを追い求め、勝者への賞賛は惜しみない代わりに、落ちてゆくものにはドライであるといった乾いた人間関係は許容できないし、良くも悪くも法の執行においてもウエットな感じがする。

「日本人とユダヤ人」という本に以下の記述がある。
「戦争直後、ヤミ米を食べずに餓死した裁判官がいた。ということは、その人が例外なのであって、他の裁判官はもちろんのこと、この法律を議決した議員も、その議員を選出した国民も、だれひとりとして、国会の議決によりこの厳然たる法律に、100%拘束されていなかった。ことを示している。」
住人なりに解釈すると、戦争直後、都会に住んでいて生き残ったそうとう多くの日本人は、闇米に手を出さなければ(法律を破らなければ)生き残れなかったのである。つまり、餓死した裁判官以外の(法の番人のはずの)裁判官も、(法を作った当の)議員も法律を厳密な意味で守ることはなかったのである。

これが日本人であり、麻生さんも、住人も日本人である。
総理の「予算が成立する前からもらう前提で話すのはいかがなものか」という発言は総理としては不適切かもしれないが、日本人としてはそれほど非難に値しないと思うのだが。

 日本には法律よりも強固な「日本人のおきて」が存在するようであるが、こまったことに「これ」が非常にあいまいである。

イザヤ・ベンダサン 日本人とユダヤ人>>>http://onoki.blog.so-net.ne.jp/2007-10-20


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