SSブログ

馬寄について [エッセイ]

今日は住人が当ブログの表題にしております馬寄についてです。 現在の住所表記では異なりますが、その昔、住人の先祖が生活していたエリアが馬寄村です。

 馬寄の語源ににつきましてはあまり記述がありませんが、住人は 以下にお示しするホームページと同様のことを多くの人より聞き及んでおります。>>>>>>北九州市埋蔵文化財センターのHP

<仲哀天皇と神功皇后の西征>

・・・前略  神功皇后と武内宿禰は仲哀天皇の死を隠し、朝鮮への出兵を決意する。この時、神功皇后は身ごもっていた。朝鮮出兵前に熊襲や逆らう者達を討ち、各地を巡幸する。我が故郷甘木市の羽白熊鷲(はしろくまわし)征伐譚もここに登場するが、ここでは割愛する。その後、群臣を集めて軍議を行い、諸国では出兵の準備が行われる。北九州関連では、馬寄(まいそう・門司区)では軍馬を集め、帆柱山(八幡西区)では木を切って船の帆柱とし、勝山(八幡東区)では竹を切って旗竿にした。朝鮮に出兵した皇后軍は、新羅の金城(韓国慶州)を包囲し新羅は降伏した。・・・後略

 大里から新町をへて赤坂までの海岸は聞(企救)の浜といわれ、古代より風光明媚で大宰府と中央交通の要衝だったようです。これは万葉集にも歌がありますのでほぼ正しいでしょう。その山手の馬寄は上記の文章を参考にすれば、住人の空想の域を出ませんが軍馬の放牧ができるようなタダの野原(原野?)だったのではないでしょうか。神功皇后伝説が根拠の空想ですからほほエソラゴトですが。

馬寄村が歴史に顔を出すのはぐっと下って幕末の長州藩と小倉藩の戦争の時のようです。平成15年7月、NHKの「その時歴史が動いた」で取り上げられていました。

馬寄村は戦争など国の事件のときに歴史の隅に顔を出しますが、それ以外の圧倒的な時間は舞台に登場することはないようです。しかし、戸ノ上神社の由来から推測するに、すくなくとも西暦800年頃より、キクの浜を見下ろす丘陵地で、数件の農家が細々としかし連綿とそれぞれの生活を営んでいた地であったのではないでしょうか。しかし「寒々とした文化のない土地だったのか」というとそうではなく、シュメール文字の石盤に見られるように古くからそして、新九郎伝説に見られるような暖かい人間関係のある土地柄のようです。ごく限られた歴史に登場する時期を除いて、昔から現在に至るまで、一般人の長閑な生活の場であったようです。

 門司の歴史については私がここで改めて紹介するまでもなく、すばらしいサイトがありますので以下にご紹介いたします。

門司の歴史(北九州市門司区のHP)

門司の観光スポット(北九州市門司区のHP)

大里柳小学校HP地域の名所

萩が丘市民センターのHP

北九州市まちかど探検史跡(しせき)や遺跡(いせき)の探検コーナー案内


 


タグ:地名
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。